私の願いと誰かの願いが出会う場所~自己覚知で見つけた「大切な自分のメガネ」~
この記事は、CforC2021の受講生がプログラムを通して感じた、自分自身の変化や願いについて言葉にしたものです。
私は今、認定NPO法人PIECESが主催する市民性醸成プログラムCitizen for Children(以下CforC)に参加しています。私も最初はこのプログラムが何なのかよく分からないまま先輩修了生たちの言葉に引き寄せられ受講を申し込み、今では「参加して良かったな」と思っている一人です。今回は私の視点からになりますが、CforCの何が私たちの心に響くのかを書いてみます。
プログラムに参加
CforCのプログラムは、動画視聴(座学)とゼミ(演習)がセットで進んでいきます。
第一回目は、子どもの心の発達や愛着形成についての講義から。
子どもたちがどのように社会や周囲の人と関わり「自分は何者か」を認識していくか説明してもらいました。私はもともと福祉の専門職なので聞き覚えのある話でしたが、参加者の属性は様々で、私のような専門職はむしろ参加者の一部です。当初みんながこうしたテーマをどう受け止めるのか、私には想像がつきませんでした。
けれど初めてのゼミで語られたみんなの言葉からは、それぞれがそれぞれの視点で、仕事で関わる子どもの事。自分の子ども時代の事。我が子の事や、親戚の子どもの事…自分が一番「心が揺れ動く対象」を大切に想い描きながらプログラムに参加している事がじんわりと伝わってきました。
そこには職種や年齢や性別、子育て経験の有無も、何も関係はなく。とても心地が良い「何か」を共有できている感覚がありました。その「何か」は、むしろ仕事をしている時ですら感じたことのない心地良い温かさだなあと感じたのを覚えています。
プログラムが進む中で感じたこと
次に少し意外だったのは、CforCでは子ども達や地域社会に働きかける前に「自己覚知」をとても促される事です。
私たちが生きていく中で知らぬ間に身につけた、感じ方や考え方、行動の癖。それらをCforCでは「自分のメガネ」という優しい言葉で参加者一人一人に伝えてくれます。「自分は何者か」葛藤し生きていくのは子ども達だけではなく、実は私たち大人も同じ道のりを辿って今日ここに行き着いたのだと気付きます。
しかし時に自分の心と向き合うことは難しく辛いことです。私たち専門職も「まずは自己覚知が大切」と言われながら、実は知らぬ間に避けて通っているのかも知れません。そんな事を、ここに偶然のように集まった人々がどうやって乗り越えるのか…これも私には想像がつきませんでした。けれど実際は、参加者それぞれが時に戸惑い、笑い合ったり涙したり、互いに気付き、励まし励まされながら、終始温かいままでプログラムが進んでいくのです.。
正直「専門職が集まるよりずっと温かいこの時間は何だろう?」と幾度思ったか分かりません。今思えばそれは、最初に感じたみんなが共有している「何か」があるからだったのでしょう。そしてその「何か」は、一人一人が一生懸命に「愛したい存在」だったのかも知れません。それは目の前の我が子かも知れないし、仕事で関わる子どもや、幼い頃の自分かも知れない、これから出会うまだ見ぬ誰かかも知れない。
みんなそれぞれだけれど、でも一生懸命に何かを誰かを愛したくて、それがいつしか私たちの「共通言語」となり、うまく言葉にならない葛藤さえ乗り越える力になったのだと感じます。
プログラムを通して自分と向き合って
そんなCforCの温かい時間の中で、改めて私も自分自身の在り方と向き合うことになりました。専門職として10年以上働いた私には、それなりに苦しみながら自分の専門性を磨いてきた矜持があります。けれど一方で「専門職は近所のお節介な人じゃない。エビデンス(根拠)を持って相手と関わり、利益と価値を提供しなければならない」という教えが、時に私の心を締め付ける事にも気付いていました。
CforCで言う「それぞれの市民性を発揮する」とはつまり「あなたは一体誰で、何をしたいですか?」という問いかけに近いと感じます。そして自分の願いと誰かの願いがありのまま出会って手を取り合えたら、そこにはきっと優しい世界があるよ、と言われている気がしました。
CforCのプログラムで出会う講師の皆さんはそれぞれ個性的で、でも誰もが、悩んだり葛藤したりしながらもどこか清々しい佇まいが印象的でした。それは仕事と人生、頭と体と心、自分を形作る要素が自然なバランスで保たれているようでした。
特に私にとって九州大学の田北先生の「子どもにやさしいまちづくり」についてのお話は、ずっと言葉に出来ず心に留めてきた想いが解放されるような回でした。まちの風景や、景色。そこから何かを感じ取り受け取りながら暮らすこと。強い意志を持って何かを与えるのではなく、そっと、みんなが元々持っている大切な事を思い出させるような優しさ。さり気なさ。
私は、とても孤独な子どもでした。
特別な困難を抱えている訳でもないけれど、誰の目にも止まらない透明人間のような気持ちでぼーっとまちを眺めて過ごす時間が多い子どもでした。
けれどその時間の中で確かに拾い集めた、大切な物を持っていました。お向かいのおばさんが弾くピアノの音。土曜日になるとどこからか漂ってくる煙草のにおい。隣の美容室のおばさんの、黒いエプロン。クリーニング屋のおじさんの「お嬢、おかえり!」の声。風に揺られて波打つ稲穂や、雪が降る前のピンと張り詰めた空気。それら一つ一つは、私が帰る実家や故郷を失った時も、ずっと私を守ってくれました。
私はとても孤独な子どもだったけれど。普通の人たちが普通に生きる、その一瞬一瞬に生かされてきました。
誰かの何気ない仕草や表情、たった一声。その中に大切な物を見つけて自らの拠り所としてきました。
それは、どこにも無かった「安全基地」を、自分で自分の心の中に築くような作業でした。
私の願い
そして今の私は、自分も誰かの思い描くまちの風景の一つになれたら良いなぁと思っています。私が住むまちは駅周辺に商業施設や国営公園などがあり、東京の多摩地区ののどかさを残しながらも賑わいがある、そんなまちです。
中でも私が一番気に入っているのは、駅前のビッグイシューの販売員さんや托鉢の僧侶、週末に現れる大道芸人…このまちに住んでいる人なら誰もが何となく分かる「あの人」がいる。そんな風景でした。
私もその一人になろうかな、そんな思い付きで路上でのしゃぼん玉遊びを始めました。特別な事は何もなく、ただ同じ場所でしゃぼん玉を作って遊ぶことを続けています。
全く気に留めず通り過ぎる人もいれば、遠くからじーっと眺めている子ども。側に来て「自分もやりたい」と言う子。私とは言葉も交わさないし目も合わせないけれど、夢中でしゃぼん玉を割って満足して去っていく子。そして時々現れる「写真を撮って良いですか」と言う大人や、そーっと投げ銭を置いて行こうとする大人。色んな人がいて、フレンドリーだったり不器用だったり本当にそれぞれだなあと思いながら、私はただそこに居る。それが何になるのと問われると正直困ってしまうのだけれど、何となく今はこれが“しっくり来ている”そんな感じかも知れません。
強い意志も、意味も理由も、こちらから掲げ与えるものは何も持たず。
ありのまま私が生きる姿が、子どもたちの視界の隅にある事。
そこに何も感じなくても良いし、当時の私のように何かを感じる子どもも居るかも知れない。生きるって、そんなに根拠を持って利益や価値を提供できる事ばっかりじゃない。けれどその子が生きる為に一番大切な感受性は、きっとその子がもともと持っているような気がするのです。取り組みの方法は、時間の経過やまちの風景と共に変わるかも知れないけれど、一番大切な願いはずっと携えていたいと思います。
誰が何と言おうと思おうと、あなたが最初から持っていたもの。
それが一番、何より尊い。
私たちはほんの一瞬出会って別れるだけかもしれないけれど、どうか私に、あなたの一番尊いものを愛させてくれませんか。
それが私の、願いです。
執筆:CforC2021修了生 手塚沙也加