CforCと出会ってたどり着いた、自分の本当の願い
この記事は、CforCの修了生がプログラムを終えて書いたエッセイです。
子どもの頃の私はついていなかった。
自分はついていないといつも思っていた。
小学校1年の時だ、たまたま友達とふざけて「ばーか」「そっちこそ、ばーか」とかなんとか、言い合っていた、
そこへ担任の先生が通りかかったことがあった。
その学期末、受け取った通知表の所見欄に「人に対して”馬鹿”ということがある」と記されていた。
その時の衝撃、「なんで?」という気持ち。
たまたまでしょ?
それも、ふざけ合っていただけでしょ?
小学校時代には、似たようなことがたくさんあった。
私だって、時には友達に親切にしていたと思うんだけど、そんな時は先生は見ていないんだよね・・・
運動ができたわけでもないし、勉強も普通な感じだったから、なかなかいいところを見てもらえない。
なんだか要領の悪い自分、なかなか褒められない自分、どうしても周りと合わせられない自分。そんな自分を好きになれなかった。
そして、母親に言われた一言
「あんたは友達が少ない」
これにはとっても傷ついたな。
きっと母親も私のことが心配だったんだろう。
自分も子どもを持つようになった今ではそう思う。
でも、小学生のころは世界が狭かったから、自分がどれくらい愛されているかなんて、わかりはしなかった。
自分と気があう友達が、どこかにいるなんてことも想像もできなかった。
ネットもない時代だったしね。
いつもどこかへ行きたかった。
時には消えてしまいたかった。
物理的には孤独ではなかったけど、精神的にはいつも孤独を感じていたんだと思う。
CforCを受講し終わって、数か月がたった今、そんな子どもの頃の記憶や思いがわきあがってきた。
子どもの行動をある一瞬で判断すのではなく、その子のありようを線や面で見ようとする大人が増えたら、過去の私のように悲しい思いをしたり、大人に不信感を持つ子どもが少しでも減るのかな。
そんな思いで、今は過ごしています
CforC2021修了生 よーちゃん
この文章を書くにあたって、CforC受講中だけでなく、修了してからの活動も影響しているとよーちゃんは話してくださいました。以下、よーちゃんのメッセージです。
これは、先日参加させてもらった、1回目と2回目の生放送にかなりインスパイアされています。
にむらさんの活動や発言にすごく揺さぶられたし、2回目の市民性の回でも話していたように、あいさつ、とか、声をかけてあげる、というようなことも大切だと思ったんだけど、自分が子どもの時、本当はどうして欲しかったかな?と思った時にいろいろと湧き上がってきました。
やっと自分の願いにたどり着いた感じです
◆CforC2022の参加者募集に関連して行った生配信
1回目「子どもが孤立しない地域をつくるってどういうこと?~地域にある様々な課題とモヤモヤ~」
2回目「市民性ってなんだろう?」
◆よーちゃんの過去の記事
特別じゃない「おはようございます」に支えられた6年間
「大人」と「子ども」が共に育む、風景としての子どもの遊び場づくり