山手線で500円玉を手渡したあの日のこと

あの時おっちゃんに手渡した500円が、生涯でいちばん重みのあるお金だったと思う。罪滅ぼしみたいな気持ちが半分と、いたたまれなさみたいな気持ちが半分、なんて最悪だけど。

昨日、PIECESのメンバーと話していてふと思い出した出来事をちょっと振り返ってみようと思います。多分2年くらい前のある夏の日。
PIECESのプログラムを受講して変わった自分にできた市民としての一歩だったかもと思える出来事です。別におっちゃんの人生が救われたわけでも、なんでもない。でも、ちょっとだけ強くなれた日。だったかも。

山手線で500円玉を手渡したあの日

電車に乗ってどこに行くだか何も覚えていないけど、私は山手線の車内でうとうとしていた。平日の昼間だったと思う。車内は比較的空いていて、明るい日差しが差し込んで来るちょっと暑い夏の日だった。


突然乗客がすっと掃けていき、私の両脇の人たちも席を立った。

何事だ?と思って顔を上げると、手に「お金をください」と書いた箱のようなものを持っていて、語弊を恐れず言うと身なりはみすぼらしく、臭いもきつい男性が車内に入ってきた。

その男性が電車に乗ってきた途端、近くにいた人たちは言葉の一言も交わさずにすっと避けて、また何事もなかったようにスマホを見ている。

おっちゃんは私の斜め前に座った。


私は動けずにいた。


車内にまとわりつく冷たい空気、ちらっと向けてはそらす冷たい視線。みんながこの時間が早く過ぎ去れと思っているように見えた。

おっちゃんがなぜ車内にいたのかはわからない。どうやって切符を買ったのかも、いつから山手線に乗っているのかも、これが初めてなのかも、毎日の仕事のようなものなのかも何もわからない。

でも一つだけ、おっちゃんは望んでこの冷たい空気を作っているわけではないのだということはわかった。

おっちゃんは静かに箱を膝の上に置いて、ただそこに座っていた。


今までの私は見て見ぬ振りをしていた。

新宿の高架下で空き缶を置いて毛布にくるまる人たちや、駅からオフィスまでにある小さな公園にいつもいる人たち。車内で眠っていたら異臭で目を覚まし、近くにいた男性。

私はいつも、見て見ぬ振りをしていた。
そしてドキドキしながらその脇を何知らぬ顔で通っていた。恐怖ではなく、何かしたいけど結局何もできない、勇気が出ない、臆病のドキドキだ。


私は財布の中身を確認した。

そして財布にあった500円玉を握りしめて、私が降りる駅に着くまでドキドキしながら待った。

「おっちゃん降りんといてな。私今から勇気出すから待ってて」って。

たった500円、お札を出せなかったのは私の弱さだと思う。
多分お札がなかったわけじゃない。なんか、お札を出したらエゴの塊みたいな気がして恥ずかしかった。(今ならそうじゃないと思えるし、結局乗客の視線を気にしていたのは自分じゃないか、とも思う。)


電車から降りる時に私は500円玉をおっちゃんに手渡した。
何か言葉をかけたきがするけど、覚えていない。

私の手は緊張で震えていた。でも、おっちゃんも同時にちょっとびっくりした顔をして手を合わせていた。ありがとう、という言葉が電車を降りようとする私の後ろから聞こえた。


日本、ましてや東京で生きていくには500円なんて微々たるものだ。
おっちゃんの1日も救えない。

ホームに降りた私は、緊張で震えた手と、何だか泣きたい気持ちでいっぱいだった。

想像力で私たちは変われる

ずっと忘れていた日のことだったけれど、こうやって思い出してみるとその時の映像が頭の中に流れて、また泣きそうになってしまった。おっちゃんに渡した500円は、何もできない自分の罪滅ぼしみたいな250円と、その場の空気のいたたまれなさへの250円。全然崇高じゃないしむしろひどいな。でもあの500円はこれまでしたどんな買い物や寄付よりも、私にとって重みのあるお金だったと思う。


これを読んでいる皆さんにも、ちょっと目を背けたくなったり困ったなと感じた経験は多分何かしらあるんじゃないかなと思います。

車内で奇声をあげている人、駅員さんを罵倒している人、匂いのきついホームレスの人。会社でいつも怒っている人、ミスばかりする人、思った通りに動いてくれない人。
そんな困ったなと感じた相手にあなたはどんな視線を向けているでしょうか。

山手線で出会ったあのおっちゃんは、
自ら望んでみすぼらしくあったのでしょうか。
自ら望んで清潔に保つことをしていなかったのでしょうか。
自ら望んで人から冷たい目を向けられながらお金を乞うていたのでしょうか。

社会にとっての困りごとは、その人のコントロールの範疇外にあることが原因かもしれないし、社会の構造がそうさせているのかもしれません。そして、生まれる場所が違えば、親が違えば、歩む道が違えば、選択が違えば、私だって自分にはどうしようもないしんどさを抱えて生きていたかもしれません。

「全ての人にその人なりの経験があって、その人の物語を生きている。」

そう考え、一度立ち止まること、想像力を持つことを教えてくれたのはPIECESでした。(PIECESについては長くなるから割愛


コロナ禍で深まる分断、差別、偏見。
深刻化する貧困問題や虐待問題、感染者への偏見や排除。医療従事者への心無いバッシング。その社会をつくってしまっている一員である私は何ができるのだろうかと考え、行動することは、ちょっとした勇気なのかもしれません。きっとみなさんにも、そんな小さな勇気を持った経験があるのではないでしょうか。それは著名活動かもしれないし、寄付かもしれないし、ボランティアのような活動かもしれません。見て見ぬ振りができなかった経験があると思います。

そんな小さなかけらを集めたら、社会はちょっとずつ変わるんじゃないのかな。って、そんな甘い理想を夢見ています。PIECESで働きながら、市民として生きながら、少しずつ耕していきたいな。そんな風に思った金曜日。


note久々に書いたな。

ではまた。


この記事はこちらのnoteからです。

Previous
Previous

セミナーレポート|子どものこころの発達への理解を深める 〜児童精神科医の視点からみえる、子どもたちの今〜

Next
Next

本当の願いについて、「かもしれない」と思える幅が増えた CforC修了生インタビューvol2